一九三四年冬―乱歩

昭和9年、連載「悪霊」が書けず休載を重ねていたある日、江戸川乱歩は誰にも行く先を告げずにふらりと家を飛び出した。
一人になって「悪霊」の続きを執筆するつもりだったが、結局書くことができなかった。

本書は、その時滞在した麻布の「張ホテル」を舞台に、実はその行方不明の間、乱歩が「梔子姫」という新作を書いていた・・・というストーリー。

主人公は乱歩その人。スランプに陥った乱歩が、書けない焦りを抱えながら張ホテルの門をくぐり、風呂で一息ついているところから話が始まります。

微かに身じろぎすると、洋風のバスタブいっぱいに張ったお湯の表に、赤や黄の小波が立つ、西に面した浴室の高窓にはめこまれたステンド・グラスの模様が映っているのである。

初っ端から、異国情緒溢れるホテルの描写に引き込まれます。

もう一人の登場人物、ホテルのボーイは、”ほんのり甘いヘリオトロープの香り”を纏った美しい中国人の青年です。乱歩らしい耽美な世界の入り口というところでしょうか。
無人のはずの隣室から感じる視線。不思議な出来事が次々起こり、徐々に妄想と現実の境が曖昧になりながら「梔子姫」の執筆は佳境を迎えていきます。

第一の魅力は、作中の乱歩のキャラクターです。
作中で乱歩は、書けない自分に悩み、同世代の作家を妬み、奇妙な出来事に慌て驚き、美しいミセス・リーに心を乱されます。それがいちいち人間臭くて、可愛い。
乱歩の心の声や精神状態などが丁寧に描写されることで、作中の乱歩にリアリティを感じます。

第二の魅力は、作中作である「梔子姫(くちなしひめ)」です。
この架空の新作は ”実は乱歩がこんな作品を書いていた”というコンセプトを裏切らない乱歩らしさ。良い意味で悪趣味かつエロティックで幻想的な趣向と文体は、乱歩が書いたと言われれば納得してしまう模倣具合です。
本筋と作中作が交互に綴られる独特な構成は、乱歩の執筆を横で眺めている気分で、話の続きが気になって仕方ありません。

第三の魅力は、文学の薀蓄です。
ストーリー内で乱歩の思考は常に脱線して、自身の著作から海外の推理小説、果ては交流のある作家の愚痴まで、文学エピソードがこれでもかと語られます。乱歩をめぐる背景があまりにも濃密で、情報量に圧倒されます。
乱歩はこんな気持ちでこの作品を捉えていたのか、とか、この作家は乱歩とこういう関わりがあったのか、という面白さがあり、紹介される様々な作品への興味が湧きます。
しかし正直、その冗長さに何度か読み進めるのを挫折しそうになりました。

全て、作者の徹底したリサーチと乱歩愛の賜物です。
乱歩オタクによる不思議な乱歩ワールドが癖になります。

著者:久世 光彦
創元推理文庫 初版:2013年1月